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ケニア小史

植民地以前の歴史

紀元前2000年頃、北アフリカから来たクシ語族が、現在ケニアの位置する東アフリカの一部に住み着きました。アラビア半島にも近いことから、紀元1世紀までにはケニアの海岸にアラブ商人たちが頻繁に訪れるようになり、そこにアラブ人とペルシャ人の植民地を作りました。ナイロック系とバントゥー系の人々も紀元後最初の千年間にこの地域に入り、内陸に定着しました。

ヨーロッパ人

バントゥー語とアラビア語が融合し、発達したスワヒリ語は、様々な人々の間の交易のための共通語として発展しました。1498年にポルトガル人がやって来ると海岸地域のアラブ人の支配力が抑圧され、モンバサの港は極東に向かうポルトガル船のための重要な補給地になりました。1600 年代になるとポルトガル人は、オマーンのイマムによるイスラム支配に道を譲ります。その後は19世紀に別のヨーロッパ勢力、今度は英国がやって来ました。

植民地の歴史

ケニアの植民地の歴史は、1885年のベルリン会議に遡ります。この会議の結果、東アフリカはヨーロッパの列強によって、各国の勢力により、初めて分割されることになりました。英国政府は 1895年に東アフリカ保護領を確立し、その後すぐに、肥沃な高地を白人移住者たちに開放しました。1920年に正式に英国の植民地として宣言される前でさえ、これらの移住者は参政権を与えられていましたが、アフリカ人とアジア人は1944年まで直接の政治参加を禁じられていました。この間、何千何万のインド人がケニアに連れてこられてケニアウガンダ鉄道線の建設に従事し、その後その地に定住して、インド商人である多くの親族を呼び寄せました。

植民地政策への抵抗 − マウマウ

1942年、キクユ族、エンブ族、メルー族、カンバ族の人々が、英国の支配からの自由を求めて戦うために秘密裏に結束しました。この誓いと共にマウマウ運動が始まり、ケニアは独立国への長く険しい道を歩み始めます。1953年、ジョモ・ケニヤッタはマウマウを指揮したとして起訴され、7年間の投獄を宣言されました。デダン・キマチは1956年にマウマウ暴動での役割によって独立運動の指導者の一人として逮捕され、その後、植民地主義者たちによって絞首刑に処せられました。そしてケニアは、1952年10月から1959年12月まで緊急事態下に置かれます。その頃には、マウマウの反乱がさらに暴動化し、何千人ものケニア人が投獄されました。この時期、アフリカ人の政治過程への参加が急速に拡大し、1954年には三つの人種(ヨーロッパ人、アジア人、アフリカ人)すべてがケニア議会に代表を送ることを許されました。

ケニアの独立の達成

1957年、アフリカ人にとって最初となる議会への直接選挙が行なわれ、選ばれた者たちはジョモ・ケニヤッタの解放に向けて、民衆運動を扇動しました。ケニヤッタは1962年に解放され、1963年12月12日にケニアは遂に独立を果たしました。そして、ジョモ・ケニヤッタは初代首相に就任します。翌年、ケニアは共和国になり、ケニヤッタが初代大統領になりました。同年、ケニアは英連邦に加盟しました。

ケニヤッタの一党国家への道

1966年、小規模ではありますが、有力な左翼野党であるケニア人民同盟(KPU)が、前副大統領でルオの長老であった、ジャラモギ・オギンガ・オディンガによって組織されました。ところが、KPUはその後すぐに禁止されてしまいます。1969年には主導者が逮捕され、ケニアは「事実上の」単一政党国家になりました。1978年8月にはケニヤッタが死去し、副大統領を務めたダニエル・アラップ・モイ副大統領がケニア二代目の大統領として後を継ぎました。

モイ時代

1982年6月、ケニアは国会によって一党国家であることを正式に宣言しました。それに応じて憲法が改正されました。1983年9 月には一党国家として初の国会選挙が行なわれます。さらに、1988年の選挙では一党体制を強化しました。しかし、1991年12月、国会は憲法の一党条項を無効にしました。1992年の初めには様々な新党が結成され、同年12月には多党制民主主義が復活し、複数の政党が参加して選挙が行なわれました。野党の分裂のため、モイがもう5年間の任期で再選され、彼のKANU党が立法府の過半数を維持しました。1997年11月の国会改革によって政治的権利が拡大され、政党の数が爆発的に増えました。再び野党の分裂によって、1997年12月にはモイが大統領として再選されました。KANUは国会の222議席中の113議席を獲得しましたが、離党者が出たため、複数の少数政党の支援に頼って法案通過に必要な過半数を維持しなければなりませんでした。

ムワイ・キバキ大統領

2002年10月、KANUから離脱した派閥と野党連合からナショナル・レインボー・コアリション(NARC)が結成されました。 NARCの候補者ムワイ・キバキは、2002年12月にケニアの第三代大統領に選ばれました。キバキ大統領は票の62%を獲得し、NARCは国会の222 議席のうち130議席(議席の59%)を得ました。キバキの最初の任期中、民主主義はさらに拡大し、連合政治が根付きました。

連立政権

2007年12月27日、ケニアでは第10回総選挙が行われました。ケニア選挙委員会の結果発表を受けての争議は、残念ながら、ケニア各地で7週間にもおよぶ前代未聞の暴動を引き起こしました。これにより、命が失われ、難民が生み出され、財産が崩壊し、社会生活、経済活動が脅かされました。

コフィ・アナン前国連事務総長が、アフリカ連合議長そしてタンザニア連合共和国大統領を務めるジャカヤ・キクウェテ氏、グレイス・マチェル女史、ベンジャミン・ムカパ氏、ジョアチム・チサノ氏などアフリカ大陸の主要メンバーの援助を得て、ムワイ・キバキ大統領とその競争相手であったライラ・オディンガ議員との調停にあたりました。それにより、国家調和と協定同意書(National Accord and Reconciliation Agreement)に署名がされます。この同意は、ケニアに平和と安全を取り戻し、被害にあったエリアを平常に戻しました。

その同意書には、政府組織の重要な変化が含まれていました。それは、首相職、そして二人の副首相を置くことです。こうして、大統領の政党である国家統一党(PNU)と、オディンガ氏のオレンジ民主運動(ODM)により、連立政権が形成されました。

その同意書に従い、大統領と首相は、国家調和推進委員会(National Accord Implementation Committee)を立ち上げました。この委員会は、連立政権(Grand Coalition Government-GCG)の行動プランを策定すること、連立政党のマニフェストを一致させること、実施に向けた短期・中期・長期の政策を策定することを目的としています。

委員会は、ケニアに調和を生みました。そして、国家緊急復旧戦略の中に、州、郡、そして私企業、市民社会、メディア、コミュニティ組織、スポーツ界、宗教団体をも網羅するプログラムを用意しました。

これと平行して、3つの大切な組織が立ち上がりました。
真実公正調停委員会 (The Truth Justice and Reconciliation Commission)
選挙暴動後における調査委員会 (The Commission of Enquiry on Post Election Violence)
2007年選挙独立審査委員会 (Independent Review Committee on the 2007 Elections)
これらの組織を通じて、ケニアとその人々に、真実、調停、そして回復がもたらされたのです。

政党は、包括的な憲法改正のための方法と計画においても、同意にいたりました。それは、ケニア政府をさらに強くし、暴動に寄与する長期的な差異を示すものになるでしょう。

ケニアの生活は、素早い回復を成し遂げました。そしてケニアは、ムワイ・キバキ大統領の最後の期である2期目を向かえ、さらに強く、団結した国になっています。

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